ブランドとしてのグッチは、日本でも有名です。
『ハウス・オブ・グッチ』という映画が2022年1月14日に公開されました。この作品は、サラ・ゲイ・フォーデン著の「House of Gucci: A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed(グッチ家の狂気、魅力、そして強欲のセンセーショナルな物語)」を原作として、グッチ一族の退廃的な30年間が描かれています。
ワールド極限ミステリーのTV番組で、マウリツィオ・グッチ暗殺事件の真相が放送されます。
「グッチ」一族に何が起こったのか?「レディーグッチ」とは?を調べてみました。
映画『ハウス・オブ・グッチ』本編予告
創業者:グッチオ・グッチの逝去後、「グッチ」一族に何が起こったのか?
創業者:グッチオ・グッチの逝去と家業を引き継いだ二人の息子(三男、五男)
グッチ(Gucchi)は、一族で発展してきた家族経営の企業です。現在のグッチの経営権は、完全に創始者一族からは離脱しています。創業はフィレンツェで始めた靴屋(創業者:グッチオ・グッチ)でした。
グッチオには6人の子供がいました。創業者のグッチオは、1953年享年72歳で逝去し、その後、家業を引き継いだのは、アルド・グッチ(三男)とロドルフォ・グッチ(五男)です。アルド・グッチは、周囲の反対を押し切りローマやニューヨーク、パリなどに海外進出をはたし、「グッチ」の名を世界に広めブランド化しました。
「グッチ」のブランドデザインである「GG柄」を考案したのも、アルド・グッチで、父親のグッチオ・グッチのイニシャルからデザインされています。
一方ロドルフォ(五男)は、最も父グッチオに愛情を注がれており、兄であるアルドと、均等にグッチ株の配当を受けています。このロドルフォの一人息子が、マウリツィオです。ロドルフォの逝去後、マウリツィオは50%の株を相続しています。アルド(三男)は40%、その3人の息子ジョルジョ、パオロ、ロベルトにそれぞれ3.3%ずつ持株となりました。
権力争いの勃発とロドルフォ(五男)の息子:マウリツィオ(創業者の孫)
創業者の孫たちである第三世代になり、グッチ一族内に権力争いが激化しました。
その孫の世代には、アルドの息子のパオロが3代目の社長に就任し、中流階級まで顧客層を独断で広めたため、グッチの持つハイブランドな商品イメージが崩れ、売り上げも低下していきました。このことによりパオロはグッチから追放されました。
激化する「グッチ」一族の権力争いに暗躍していた「レディーグッチ」とは? クーデターと「レディーグッチ」の暗躍
グッチを追放されたパオロが、従兄弟にあたるマウリツィオ(グッチ株を50%所有)と共謀し、父親のアルドを社長の座から引き摺り下ろすクーデターを起こしました。
1984年の株主総会で、2代目のアルドは社長を辞任しました。3代目の社長に就任したのが、マウリツィオです。
アルドは、簡単に引き下がらず、翌年裁判を起こしました。マウリツィオは社長職を一旦離れますが、翌年、パオロは父親を脱税で告発します。有罪判決受けた父親アルドは、80歳過ぎで収監されることとなりました。
この「グッチ」一族の骨肉の争いで、裏で暗躍していたのがレディーグッチこと「パトリツィア・レッジャーニ」です。パオロとマウリツィオを共謀させ、2代目社長のアルドを辞任に追い込み、自分の夫であるマウリツィオを3代目社長に就任させたのです。
マウリツィオ・グッチとの出会い、結婚そして離婚へ
パトリツィアは北イタリアのヴィニョーラで貧しく育ちましたが、12歳のときに母親は裕福な企業家と結婚しています。その後上流階級のパーティーで、マウリツィオ・グッチと知り合い結婚します。結婚生活は13年間続き、アレグラ、アレッサンドラという2人の娘を授かります。
マウリツィオとパトリツィアは、経営方針や意見の食い違い等で夫婦関係は破綻し、。マウリツィオが家を出て別居する事を選びました。
母親のパトリツィアが子供たちを養育をすることになりました。
マウリツィオが離婚を切り出し状況が一変しました。しかも、マウリツィオに恋人がいることがわかりました。贅沢三昧のグッチ婦人の座が危うくなるとともに、娘二人へのグッチ一族の財産分与も危ぶまれる状況に追い込まれたのです。
パトリツィアは慰謝料として、年間100万ユーロ(当時のレートで約1億3000万円)相当を受け取る事で合意し、正式な離婚は1991年に成立しました。
その後、マウリツィオ・グッチが再婚し、さらに1993年9月末、グッチの持ち株50%をバーレーンの会社に売却が決定しました。
その結果、映画の中でも描かれているマウリツィオの暗殺計画を考え出したのです。
共犯者とともに計画の実行
グッチストアのオーナーで、パトリツィアの友人でもあるナポリの占い師のジュゼッピーナ・アウリエンマに相談し、計画、準備しました。犯罪組織のトップであるイヴァーノ・サヴィオーニにパトリツィアは、ナポリの魔術師と呼ばれていたヒットマンを紹介されて雇い、元夫のマウリツィオの暗殺を依頼しました。
ヒットマンのベネデット・セラウロは、1995年3月27日の朝8時30分にミラノの本社の階段の上から降りて来るマウリツィオに対して、下からピストルで4発銃撃し計画を全うしました。
2年の歳月をへて逮捕
捜査は難航し、2年間の未解決でしたが捜査官のおとり操作で、計画犯であるパトリツィアの逮捕に至りました。自宅から連行される際、パトリツィアはすべての宝石と派手な毛皮を身に着けていました。刑務所に入るので、貴重品や毛皮は家に置いておくように言われましたが、パトリツィアは、「私の宝石と私の毛皮は、私が行くところについて来ます。」と言ったことは有名な逸話です。
収監所でのパトリツィアの現在では考えられない特別待遇とは?
パトリツィア・レッジャーニは、懲役26年の有罪が確定しました。
1998年11月3日からサンヴィットーレ刑務所に収監されましが、獄中生活は今では考えられない特別待遇を受けていました。
投獄中、ペットとしてフェレットを飼い、庭で日光浴をしてゆったりと過ごしていたと言います。家族や友人が自由に会いに来れるように面会優遇年間パスを与えられ、刑務所内でも囚人番号で呼ばさせず名前で呼ばせていました。執行猶予で景気終了後も社会奉仕活動も拒否し、獄中ライフをエンジョイできたパトリツィアは「(刑務所の)勝利の住人」と呼ばれていたのです。
パトリツィアは、模範囚だったため、刑期を9年残し17年間の服役のち出所しました。刑期が26年から17年に短縮減刑された事で、「勝利の住人」という名前から、不屈のブラックウィドウ「クロゴケグモ」(黒い未亡人)というニックネームで呼ばれるようになったのです。
まとめ
私とは縁がない上流階級(セレブ)の世界、日本でも昔から平氏、源氏の争いはもとより世の習わしとして、権力争いから親子、兄弟骨肉の争いを繰り返してきました。「グッチ」一族の中にも同じような構図を感じました。ブランドとしてのグッチは残りましたが、「グッチ」一族は没落しました。その大きな原因が、レディーグッチと呼ばれたパトリツィア・レッジャーニだったのです。
収監所の中でも、彼女は権勢を誇り、収監後もペットを飼うことを許され「勝利の住人」と呼ばれ、出所後も不屈のブラックウィドウ「クロゴケグモ」(黒い未亡人)と呼ばれています。レディーグッチとしてのプライドが、彼女のよりどころであったのかもしれません。
公開されている映画『ハウス・オブ・グッチ』が、どのように描かれているのか楽しみです。
コメント